僕が【小説】に人生を捧げていた頃の話です。
どうも皆さんこんにちは!
ドリームキャッチ請負人の、みやびです^^
今日は昔話を。
僕が小説作家を志すようになったのは17の時でした。
それが人生で初めて持った夢です。
物心ついた頃から高校二年生の冬まで、覚えている限りでは夢など持ったことがありませんでした。
将来の夢は何ですか?
決まり文句のように訊ねられていた言葉に僕が都度答えていたのは、
「夢を見つけることです」
でした。
それを聞くたび、周りの大人たちは決まったように首を傾げたり苦笑を浮かべていたのを覚えています。
「みやびは大人になったら何をするとね」
そう訊かれたら、今度は僕が首を傾げる番。
もういっそのこと、誰かが将来の道を決めてくれないかと思ったこともありましたが、いざそれをやられるときっと僕は反発していました。
『自由』、というのは僕の中にずっとあったワードだったからです。
そんな子供時代を過ごし、高校3年生になってようやく見つけた『小説作家』という夢は、僕の中では宝物のように大切な存在になっていました。
渡辺雅の存在を証明してくれる唯一のモノだったんです。
家族の手を借りて熊本から福岡へ上福し、専門学校で3年間のスクールライフを送ります。
それはそれは楽しい時間が流れていきました。
同じ志を持った同級生と切磋琢磨し、青春を謳歌し、夢を追いかけました。
卒業すると、僕はフリーターの道を自ら選びます。
当時の僕は就職することで時間が喰われると思っていました。
ここにも『自由』の価値観を置いて、フットワークを軽くできる選択をしたんです。
本当の戦いはここからでした。
ひとたび『外』に出ると、社会の荒波が一気に押し寄せてきました。
いち大人としての存在を試されているかのように、金、時間、立場の価値観を周りの大人たちから押しつけられます。
まるで他人のレールへ引きずり込まれているかのように、向かい風が延々吹いていました。
そんな中、SNSで同級生たちが上げている投稿が気になりました。
皆当然のように職に就き、いい時計、いい車、マイホームを購入したり、海外旅行へ行っていたり。
彼らは一見、順風満帆な人生を歩んでいるように映っていましたが、どこか違和感がありました。
違和感の正体は、それが「ごく一部の幸せを切り取っただけの投稿」だったからです。
同級生の普段の投稿を見ていると、会社の不満や上司の愚痴、憂鬱そうな文句がつらつらと並んでいました。
日常に対してネガティブを言い、ごく一部の幸せなひと時を「非日常」としていたんです。
他人の幸せの形に口を出す気はありませんでしたが、僕にはどうもそれが気持ちの悪いものに映っていました。
普段は苦しくて当たりません。
幸せなんてたまにあるからいいんだ。
そんな言葉も目立っていました。
その時僕は、ちょっと安心したんです。
自分がまだ「そっち側」に行っていないことを認識できたからです。
その同級生たちの生き方に共感できないということを、そう結びつけたんです。
(もちろん、その人たちの人生を否定しているわけではありませんよ)
小説を書いていると、苦しいことが多くありました。
社会の荒波は当然、小説というモノ自体にもだいぶ苦しめられました。
もう僕が書いていた小説は趣味ではなく、「人様に読んでもらう商品」として扱っていましたから(デビューしていません)、好き勝手に書くというよりは「どうやったら伝わるか」という部分をしっかり考えながら書いていました。
案が出ない時は何日間も悶々としましたし、遊びに行けば締め切りに間に合わないという焦りばかりが込み上がる日々も続いていましたが、これが不思議なことにスッと案が降ってくる時があるんです。
よく天才が言うような、「降りてくる感覚」です。
その閃いた瞬間はなんとも言えない心地良さに包まれて、それまでの苦悩を全て吹き飛ばす快楽に変わるんです。
原稿用紙300枚分ほどを3ヶ月ほどで書き上げ、出版社へ送る為に印刷し紐で束ねる瞬間が一番好きでした。
その時に見る原稿用紙の束はどんな札束よりも価値があるモノだと思えたからです。
ここに何百万円という札束を積まれようと、この書き上げた原稿用紙の束に勝るものはないと思っていました。
小説を書いていて一番の快楽と言えば、そんなことでした。
でもたったそれだけが、何万文字も書き連ねるエネルギーになってくれていたんです。
お金がなくても、社会的地位が低くても、同級生並みの娯楽や生活ができなくても、その時の僕には小説が書ける時間と環境さえあればいいと思えていました。
それくらい、夢にはパワーがあります。
夢を叶える行動は、生き甲斐に直結するんです。
皆さんも、夢を持って追いかけてくださいね。
それでは皆さん、また逢う日まで!
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