特別編掌小説 『恋愛虫』
退屈な生活を変えたかった。私が啓太と付き合った理由は、そんなところだったのかもしれない。
付き合った当初は輝かしく見えた日常の景色は、五年の時を経てくすんで見えるようになった。友達カップルに僻みを言っていた学生時代のあの日々が懐かしい。
〈十九時に大画面前〉
〈やばっ。まだ準備してない〉
〈うち今買い物中♪ 遅れたら飲み代奢りね♡
〈謹んでお断りさせていただきます〉
LINEのやり取り。人間のようなクマが踊るスタンプが送られてきて、私はそれを既読無視する。
返信する暇があるなら準備しなければならない。スマホの画面の左上をもう一度確認する。十八時前だ。着替えて化粧をして髪を巻いて……本当に奢らされるかもしれないなぁ。
ダイニングテーブルを立っていそいそと準備を始めると、居間のソファにくつろぐ体がこっちを振り向く気配がした。もう夜になるというのに、髪は寝癖が立ったまま。せっかくの休日を寝て過ごしている奴。
逃げ込むように寝室に入り、居間からは見えない位置に立ってクローゼットを開く。服を選ぶ。
「ん? 出かけんの?」
視覚からは逃れられても声からは逃げられなかった。2DKの間取りでは無視するには狭すぎる。
「香穂と飲みに行くの」
「え、聞いてない」
「言ったよ、昨日。夜は作れないってのも」
梅雨時期は着る服に悩む。蒸し暑いけれど、雨のせいで肌寒いときもある。半袖じゃ心もとないし、でも一枚羽織ると汗ばみそうだ。
頭の中は洋服のことでいっぱいだった。
「マジか……晩ご飯何食べよう」
独り言なのか文句なのか分からない啓太の言葉を、今度こそ無視する。言いたいことがあるなら、ハッキリ言えばいいんだ。
身支度をする間、務めて忙しいふりを決め込み、玄関でパンプスを履くまで啓太には一瞥も送ることは無かった。出掛けの「行ってきます」だけを儀式のように吐くと、部屋の奥から返事が返ってきた。
無視してくれて構わなかったのに。そう心の中で呟いて家を出た。
「んでさ、追求したらそいつゴルフ言ってたわけ! 酷くない? 妻の出産中に遊ぶとかあり得ないわ!」
予約していた居酒屋に入店してから一時間以上が経つと、香穂の顔はずいぶん赤くなって喋りも饒舌になっていた。私も三杯目のハイボールがだいぶ身体に回っている。今日はお互いに飲むペースが早い。
酔いが回ると話題はいつも香穂の周りの女友達の珍事件になる。そういうのを寄せ付ける体質なのか、定期的に会っている彼女の口からは布団のホコリのように新しい男の悪口が飛び交った。私はそれを聞くのが少し楽しみなところがあった。
ベリーショートのヘアスタイルと大きなウッドピアス、薄化粧なのに映える顔立ち。香穂はこんなに美しいのに、口をつくのは他人の男の話ばかりで本人にはそういった浮いた話が無い。
色気のない生活なのに、どうしてか私よりも充実しているように見えている。
「京子はどうなのよ、彼氏とは」
「なぁに、珍しいね」
「何がよ」
「あまり私のこと訊かないのに」
「んふぅ、そうだっけ?」
互いに、酔っている。始終ニヤケ面なのに、心はずっと笑えていない。
「普通よ、ふ、つ、う。あ、すみませーん、ジントニックひとつぅ」
ハツラツとした店員の声が、どうにか私の気を紛らわしてくれる。安くも賑やかな居酒屋に来て正解だったと思う。
「あんたさぁ、将来のこととか考えてんの?」
酔っているはずなのに、香穂のその言葉はしっかり置かれた気がした。まるで、元からあった台本を読んだセリフのように聞こえる。
「お説教はやめてー。お酒がまずくなる」
私はすでに気付いていた。今日、香穂が私をこの席に呼んだ理由を。さっきのセリフはやっぱり、元から準備されていたことだ。
「真面目に訊いてるんですけどねぇ」
おチャラけた言い方なのに、目が笑っていない。
「香穂だってー、彼氏いないじゃん。将来のこと考えてんの?」
「うちはいいの。独身貴族だから」
「旦那もらって子供欲しいとは思わないのかよぉ」
「子供は好きだけど旦那はいらないかなぁ。一人の方が何かと楽だし、子供なら自分のじゃなくたって可愛がれるしねぇ」
嫌に挑発的な視線を向けられ、私は揚げ豆腐を箸で切って口に運ぶ。目をそらしたのは逃げたからじゃない、と言い訳してるみたい。
「いや、うちのことよりあんたのことよ」
「将来、って言われてもまだ何も考えてないよ」
できるだけ早く、それでいて自然に答えたつもりだ。でも香穂には通用しなくて、お酒のせいで少し充血した目を真っ直ぐ向けてくる。
たまらず、空のグラスを傾けてアルコールの香りを残した氷の溶け水を口に流した。そのタイミングでジントニックが運ばれてくる。ついでにグラスを下げてもらった。
「あ、生一つ」
香穂が注文すると、また快活な店員の声。悩みの無さそうなその笑みは営業スマイルには見えない。
「5年も付き合って同棲してる彼氏がいるのに、何も考えてないわけないじゃろ」
崩れた口調は酔いのせいなのか、場を和ませるためにやっているのか。でもどちらにしろ、私を楽しくない気持ちにさせる。
「だってぇ、私たち言うてまだ二十七だし。三十路で結婚する人もいる世の中だよ。そんなに焦ることでもないじゃん」
「三十路の京子を捕まえてくれる人がいるならね」
飲んだジントニックのリキュールの香りが口内に広がる。思いのほか消毒液臭くて、酒場としてのこの店の底が知れる。もしくは作った奴が新人だったか。だとしたら、私はそうとう運が悪い。
「……嫌な言い方」
「事実でしょ? あんた、彼氏と上手くいってないでしょ」
酒を入れる気になれず、だからと言ってつまみを食す気も起きない。濃いアルコールの味だけが口の中に残っている。
ムスッとした表情が出たのは、その強い酒のせいだと思いたい。
「いつから気付いてたの?」
「今年に入ってからかなぁ。新年会二人でやったときは彼氏の愚痴言ってたのに、それから会う度彼氏のこと何も話さなくなったもんね」
私がちょうど、冷めだした頃だ。
「今じゃパッタリ無くなった。だから、ああ、もうそろそろかなって思ってさ」
もうそろそろ。その言葉が嫌に胸に刺さる。口に出したくなくて、唇を引っ込める。
手は完全に、卓上から膝上に落ちていた。
「うちは別にさ、別れろとか、続けろとか、結婚しろとかするなとか、んなお節介を焼く気はないの。京子の自由だもん。あんたがやりたいようにやればいい。でもね、親友としてこれだけは言っておく」
店員がジョッキに入った生ビールを持ってくる。香穂は愛想良くそれを受け取って、そのままビールを片手に持ったまま肘をついた。
「時間は有限、人生は短い。独り身だろうが既婚者だろうが関係ないよ。人生楽しんだもん勝ちでしょ。楽しくないなら早くそこから出なきゃ。無駄に年老いていく一方だよ」
落としていた視線を上げて、真っ直ぐ、香穂を見る。
頬の赤い彼女の笑顔は、濁りなく澄んでいる。
それが気休めではない、本心からの言葉なのだと受け止められる。私の中で、何かがストン、と落ちた気がした。
「……うん」
私もジントニックを持って、グラスを香穂のジョッキに当てた。カン、と軽快な音が鳴る。
「ねえ、こういうのって、私から切り出すべきなのかな」
消毒液臭い酒を舐めるように飲みながら、何となしに訊いた。彼に告白したのも、同棲を促したのも私からだった。割り切って考えれる立場ではないと思えた。
香穂はビールの泡を上唇に付けながら、怪訝な顔を浮かべる。
「なぁに。散々振り回した男を振るのは気まずい?」
全部、筒抜けみたいだ。頷く。
「バカねぇ、あんた」
「いいよ、バカで。その通りだもん」
「いじけなさんなって。あのねぇ、京子」
香穂がジョッキを置いて、私を真っ直ぐ見る。まつ毛の長い、美人な顔立ち。地味な私とは大違い。
自分へのご褒美で買ったというシャネルのルージュが上手に塗られた唇が、間もなく開く。
「あんたの五年間の愛は本物だったでしょ。じゃあ、あんたを責める人は誰もいないし、仮にいたとしたら、うちがそうさせないわよ」
………………あ。
「あららー、泣くことかよー」
「っるさい……香穂の、せいよ……もぉ、化粧落ちるぅ」
「あははは、泣け泣け! 泣き虫京子!」
「ぞれっ、何年前の、はなじよー」
「あっはは、よしよし、辛かったねぇ」
「今日、香穂の、奢りだかんねぇっ」
買い物に夢中になって待ち合わせ場所に五分遅れた香穂を責めるのは今しかない。一瞬でも酒をまずくした罰だ。
それに、こんなことにまでさせて!
泣きながらも悔しさが込み上げて、それからは昔からある香穂の遅刻癖について掘り返してやった。しばらく涙は止まらなかったけれど、私の口も止まることなく饒舌に喋り続けた。
ブレーキが壊れたみたいに、勢いで色んなことを言った気がした。泣き止んだ後ではほとんど覚えてなくて、落ち着いてから香穂を見ると気付かぬうちにゲッソリやつれていた。
店を出て香穂と別れたのは、ギリギリ終電に間に合う二十三時半だ。
スマホを開くと、夜遅くにも関わらずLINEの通知が入っていた。啓太からだ。
不思議と抵抗なく、メッセージを読み始める。
〈明日、日曜日だから会社休みだよね。
ちょっと話したいことがある。明日の仕事終わって帰ってきたら、聞いて。あまり、いい話じゃないけど……。
今日は先に寝てるから。おやすみ〉
地下鉄の駅へ向かうべく通っていた地下街の真ん中で、足を止めてスマホを眺める。オレンジ色の蛍光灯で照らされた地下に、スマホの白い明かりは妙に眩しい。
目頭に力が入ったのは、きっと眩しさのせいだ。もしくは、酔いにやられて光に敏感になっているからかもしれない。泣き腫らしたのも原因か。胸が苦しいのは、お酒の飲みすぎ。胃がせり上がる感覚は、おつまみを食べすぎたから。
視界が曇ったのは、眠くて無意識にあくびを漏らしたからに違いない。
いや、違うか。私も泣いているんだ。
「……そっか、啓太も同じだったか」
初めて知る、彼の本当の気持ちのような気がした。失いそうになった途端に胸がザワつくなんて、私は愚かな女なのかもしれない。
五年の愛は本物だった。
本物の愛を注いだからこそ、手放すことが怖くなっていた。依存していたのは啓太ではなく私だった。恋愛に依存し、啓太がいない人生を想像しなかった。
だから啓太に求めすぎた。何も悪いことをしていない彼の、その平凡さをいつしか「つまらない」と思うようになっていた。 私だって十分つまらない凡人のくせに、寄生虫のように、相手のものばかりに手を伸ばそうとしていた。
向こうから伸ばされていた手には、これっぽっちも気付くことなく。
明日何を言われるかは知らないけれど、私も自分の気持ちをちゃんと伝えよう。そしてこの『言葉』だけは必ず言おう。
五年分の自分と相手の愛に対して。これだけは、必ず。
バカな私はそう思いながら、化粧も気にせず涙を拭って、地下鉄へと歩き始めた。
終わり。