掌小説 「災いの山」
十二の少年と少女は、村では行ってはならないとされている「災いの山」にいた。少年が度胸試しに、少女を誘って山へと入ったのだ。
あと一刻で陽が沈む黄昏時で、辺りは奇妙な薄暗さに包まれている。道は険しいと思われたが、森を割ったかのような泥の一本道が二人を誘い込むかのように続いていた。道端には手の平ほどの石がいくつも転がっていて、少年と少女は片手にひとつずつ、二人で四つの石を拾って坂道を上り続けた。
「ねえ、どうしてここだけくぼんだ道になっているのかしら」
少女がささやかな疑問を問いかけると、先を歩く少年は得意げに口角を上げる。冒険心に火がついていた。
「きっと獣道なんだよ」
「けものみち?」
「シカやイノシシが通る道さ。踏み固められるから草が生えないんだ」
「へえ。シカやイノシシってこんなに大きいのね」
「群がいっせいに通ってるのかもしれないよ。さあ、急ごう。日が暮れちゃう」
少年と少女はその「獣道」のおかげで迷うことなく山を登り続けた。
登り始めて二時間が立つ頃、視界を狭めていた森がはけて広がった。そこには大きな池があって、水面が夕焼けに赤く染まっている。まるで血の池みたいだ、と少年がこぼすと、少女は思わず石を落として彼の袖口をぎゅっ、と摘まんだ。
「すごい。なんて綺麗なところなんだろう」
少年は興奮した面持ちで池やその周りに咲く小さな花を眺めた。木々に囲まれた広い空間の中に、それらの景色は別世界のように在った。
「獣道」はその池の手前で消えていた。少年は「なるほど」と手を打ち、きっとここは動物たちの水飲み場なんだ、とまた得意げに少女に話した。
「ねえ、もう帰らない? なんだか、ここ嫌な雰囲気がするわ」
「何言ってるんだよ。よく見て、こんなにキレイなところじゃないか」
少女の言葉に少年は聞く耳を持たなかった。
恐れることなく池の近くまで歩み寄ると、二つ持った石のひとつをその中へ投げ入れてみる。
石は、ボチャンッ、と音を立てて池の中へあっという間に沈んでいった。
と、そのとき赤色の池に変化が現れた。夕陽に染まっていたはずの水面がみるみる色を変え、瞬く間に淡い緑色になったのだ。
これには少年も慌てて身を引き、少女のところへ逃げ戻った。
「な、なんだこれ! 色が変わった!」
「落ち着いて。ただ色が変わっただけじゃない」
今度は少女が少年を置いて、池の畔へ歩み寄る。
「なんて、キレイなのかしら」
少女はしばらく池を見詰め、それから自分も片方の石を投げ入れた。
ドボンッ、と音を立てて数秒後、今度は今朝の空のような青色へ変わる。少女は神秘的な光景に見惚れ、いざなわれるかのようにもう一つの石を投げ入れた。池は紫陽花のような紫に染まった。
「ほら、その石も早く投げ入れて。私、この池が色を変えるところをもっと見てみたいわ」
「う、うん。分かった」
少年は言われるがまま少女の隣へ歩いて、石を放り投げる。今度は金色に輝く池。
「なんて素敵なところなのかしら。ここが災いの山だなんて信じられないわ」
「僕もそう思うよ。もしかして、大人はこの景色を独り占めしようとしたのかな」
「きっとそうだわ。こんなに楽しいところを知っちゃったら、皆きっと勉強も後回しにして来てしまうもの」
「それは、大人からすれば都合が悪い話だね。でもズルいよ、大人が僕らの知らないところでこんなに楽しいことばかりしているのは」
「私もそう思うわ。ねえ、今度他のお友達も呼んで、またこっそり来ましょうよ」
「いいね、それ。僕らだけの秘密の会を作ろう!」
少年と少女は次の計画に夢中になった。いつしか辺りが暗くなり、目の前の池が真っ黒く染まっているのにも気づかない。
池の水かさが増えだしたころ、その異変に少女がようやく気付いた。
「ねえ、なんだかこの池、水の量が増えていないかしら」
「え? そんなバカな」
足元に目をやると、少年の草履がいつの間にか水に浸かっていた。二人して慌てて後ずさり、いま一度池の様子を探ってみれば、その間にも池の水が周りの陸地を呑み込んでいくかのようにどんどん増えていっているのが分かった。
後ろに下がっても下がっても追いかけてくる水に恐れを抱いた二人は、どちらともなく振り返って「獣道」をひた走る。
十分ほど走ったところで少女が石に躓き倒れた。少年は急いで戻って彼女の手を引いたが、後ろから不意に聞こえた音に嫌な予感を抱き、足を止めたまま振り返った。
「獣道」の上の方から、ゴゴゴゴという音が近づいてくるのが分かる。間もなく暗闇の中、足に冷たい感触があった。
水だ。
刹那、視界の先から鉄砲水が、「獣道」に沿うようにして襲ってきた。
「横に逃げろ!」
少年の咄嗟の声に、少女が急いでくぼんだ「獣道」から横に脱すると、少年も同様に少女の後を追って逃げた。間髪入れずに大量の水が「獣道」を通過して、あっという間に少年たちが立ち止まっていた場所を流れていった。
その間にも水かさは増え、いつしか濁流となっていく。「獣道」は完全にひとつの川のようになった。
「これ、獣道なんかじゃなかったんだわ」
頭や服を泥や雑草で汚した少女が、濁流を見下ろしながら呟くように言う。少年はそれを聞きながら同じことを考えていた。
「川が流れた後だったのよ」
「けど、どうして今まで水がなかったのさ」
「池の水がこういう風にして流れるのよ」
「雨も降ってないのに、池の水が増えるわけないだろう」
「実際に増えたじゃない! それに、きっと私たちのせいなのよ」
「どういうことだよ」
「石を投げたからよ。そのせいで、池の水が増えてしまったんだわ」
「そんなバカな! あんな小石四つだけで増えるもんか!」
少年が叫ぶと同時、川上から水とは違う音が近づいてくる。二人はそれに耳をそばだてた。
しばらくして、大岩が激流に乗って転がってきた。岩はいくつかに割れて分裂しているようだったが、それでも少年たちの何倍も大きく、轟音を立てていくつも流れていった。
少年は驚愕して言葉を呑み込んだ。
「ほら、やっぱりそうなのよ! 大人たちが言っていたことがようやく分かったわ。ああ、私たち、大変なことをしちゃった」
少女は嘆き、顔を両手で覆ってしまう。二人は途方に暮れるかのようにその場にうずくまるしかできなかった。流れた水を止める方法なんて知る由も無く、この池の水が引くのをただ待つしかなかった。
二人がこの山を登る際、「獣道」は村の端から続いていた。つまるところ、水の行きつく場所がどこなのかは検討ついていた。
「このままじゃ、村が流されてしまう」
「私たちのせいよ」
二人は絶望しかできなかった。今さら急いで山を下ったって、激流に追いつけるわけはないのだ。今はただ、村人たちが山の異変に気付いて非難してくれるのを祈るばかりだった。
二人は側の大木に身をあずけ、寄り添うようにして川の流ればかりを見詰め、疲労のせいかいつしか眠りについていた。目を覚ました少年が、勢いよく立ち上がる。どれくらいの時間が経ったかは分からなかったが、正面を見やると水がほとんど無くなっていた。
少女を起こし、二人は泥と水でぬかるむ道をひたすら下って行った。ようやく麓へ下りたとき、村の方に松明の明かりがちらほらと見えて、そこからは走って村へ戻った。
迅速な非難のおかげで幸いにも死者はおらず、村の被害もほとんど無傷で済んでいた。山から流れてきた大量の水はすぐに勢いを弱めたらしかった。
少年と少女が帰ってきたことに安堵する声がある中、しかし二人を咎める声も当然上がった。村の大人たちは、この洪水の原因が山から戻ってきた二人の仕業であることをとっくに見抜いていた。
「あの池に小石を投げ入れると、石を巨大化させ水を溢れさせる。この村には過去何度もそれによる水害があった。あれはそういう不思議な池なのだ。今回投げ入れた石は幸いにも四つだけだったから良かったものの、これが十個や二十個に増えていたならばより最悪な事態を招いていたのだぞ。己が何をしでかしたか十分に理解し、反省しなさい」
親に手を引かれ集会所に連れられた少年と少女を叱りつけたのは村長だった。泣き続ける少女のかたわら、しかし少年は反抗的な態度を崩そうとはしなかった。
「あんなことになるなんて思わなかったんだ。誰も石が大きくなるなんて教えてくれなかったじゃないか!」
「教えたら、それこそ好奇心に任せて子供は山に入るだろう!」
「ああなると分かっていたなら怖くて入らないし、池に石を投げ入れることもなかったさ」
「ええい、そんなもの言い訳だ! とにかく、もう二度と山には近づくな。池のことも他言しないように、分かったな!」
少年が何を言っても、もう村長が耳を貸すことはなかった。
大人はなんて勝手なんだ、と少年は不満を募らせながら家へと戻った。
十年後、村はまた洪水に見舞われた。
原因は村に住む子供二人の仕業で、色が変わる池があることを親から聞いて興味本意に山に入ったらしかった。
たくさんの岩を含んだ濁流は村の半分を崩壊させ、犠牲者もたくさん出した。
ひとりの男が、村長に咎められる子供ら二人を眺めながら、「まったくガキに変なことを教えるとろくなことにならないな」と呟いた。