無償の愛を与えられる存在に、僕たちも救われている。
おはこんばんにちわ!
年齢と共に胃の衰えを感じて止まない、みやびです('ω')ノ
先日は大切な人の誕生日だったので、お祝いとプレゼントを贈ってきました!
誕生日当日に贈り物をして、日を空けて今日、なかなか行けない福岡シーホークのビュッフェを堪能してきましたよー(*´ω`)
いやあ、美味しかった! 何より楽しかった!
相方さんも喜んでくれたみたいで、お腹も胸もいっぱいです!
人を祝福するのってとってもいいですね。どんなにお金がかかろうがどんなに労力がかかろうが、あの笑顔を見るともっと大きな価値を返してもらったように思えます(*^-^*)
「ありがとう」って言われたら、「こちらこそこんな素敵な時間をありがとう」と思いますね。祝福できる人がいなければ、そんな時間は絶対に訪れないのですから。
人を祝福するときって自然にwinーwinの関係になるんだな、と改めて実感できました!
こういうことにも気付かせてくれて、ありがとう!
さて、そんな素敵な時間を通して大きく感じたことがありました。
この「人を祝福する」ときって、皆さん義務感でやられてますか? もっと砕いて言えば、「祝いたくないけど、やらないとなぁ」と思って毎年毎年「祝福する準備」ができるでしょうか?
僕は、無理だと思っています。
たまたま一度、そういう事があったとしてもそれを翌年も翌々年も続けることは不可能に近いです。だって、それは「祝福」になっていないから。
ただの儀式ですね。お祝いしているつもりでも、実はただ儀式をやっているだけなんです。だから義務感でやっている時点で、本当の意味では人を祝福できていないわけですが。
まあそれは各々感じられる部分ですので、気付いている人は多いでしょう。人間関係の問題もあるでしょうし、別にそれ自体が悪いという話ではありません。
ただ、もしも義務感でしか人を祝ったことがない人がいるのだとしたら、その人は本当の意味での「幸」を感じ取れていないかもしれませんね。
まずもって、そんな人はいないと僕は思っています。人生の中で一度くらい、一人くらい、心から祝福できた経験や人物はいると思います。
そのとき皆さんの心がどう動いたか、少し思い出してみてください。楽しかったのか、嬉しかったのか、温かかったのか。
満たされるような感覚があったのではないでしょうか。そしてその感情はいずれも肯定的なものだったと思います。
それを感じるときって、きっと相手に「無償の愛」を与えたときなんじゃないかなと思うんですよ。心の底から祝福したいと思って与えた愛によって、皆さんの心も何かに満たされたんじゃないかな。
満たされたときに、「ああ、お祝いできてよかったな」「喜んでくれてよかったな」とホッとする場面もあると思います。それが満たされている証拠なんですね。
で、それを感じている時ってけっこう救われた気持ちになりません?
相手を喜ばせているつもりが、自分も喜んでいません?
結婚式で新郎新婦の前で号泣する友人を見たことありません?
ソレです。
それこそが、無償の愛を与えたことによる対価なんですよね。
与えたからこそ返ってきた感情であり、価値であるわけですよ。心が満たされる。満足できる。それって数ある幸せの形のひとつでもありますよね。ああ、こんな場にいれて幸せだな、って思えるんです。
幸せになれると人って救われるんですよ。今まで自分がやってきたことが間違いじゃなかったと思いますから。
どうしても過去を見て後悔してしまうのが人です。あのときこうすべきだったかな、と思ってしまう人が多い世の中です。
でもそんな中でも幸せを見つけられれば、自己肯定できる。自分の過去を認められる。つまり、救われるんです。
どうですか、繋がっていきません?
無償の愛を与えれば、僕たちは救われるんです。
人を祝福して自分は救われる。こんなにwinーwinなことってありますか。一見都合の良さそうな関係ってありますか。
あるんです!
あっていいんです。それを皆さんにもどんどん経験していただきたい!
自分が祝福される側でもいいんですよ。だってそうすれば、祝福してくれた側の誰かは救われるんですから。これこそが人助けだと思いませんか。
無償の愛を与える人でもあり、与えられる人でもあってください。
どうか、あなたの愛を届けてくださいね(*^^*)
隣人「おいおい、半分ノロケじゃねえか」
へへへ。